30歳からのブログデビュー

アラサー男があなたに贈る現代版「徒然草」(つれづれぐさ)

あまりに素敵な隠れ家的「浜」と「現代の奴隷」の話

1.

 

南の島滞在も残り1ヶ月となりました。

 

今日はマンスリーで車を借りたついでに、ビーチへ行ってみたのですが…。

 

土曜日ということを忘れていました笑 めちゃ混んでいました。自分は海や太陽が大好きですが、混み合った場所が大嫌い。そこで、前回足を運んで素晴らしいな、と思ったビーチ(というか「浜」と言った方がしっくりくる)まで車を飛ばして見ました。

 

その浜は、とある集落の中にあります。着いたのが、夕方4時半くらいだったと思いますが…すっごく空いていました。広い砂浜に座り、巨大な海を独り占め。Tシャツを脱いで体を焼きます。

 

最近はiPhoneでも仕事ができるように整備しているので、誰にも邪魔されず、太陽と波の音を感じながら仕事をしました。

 

それにしても、19時近くなってもまだ日が残っているのには驚きました。

冷えたサンピン茶(沖縄ではジャスミン茶をこう呼びます)のほのかに甘みのある芳香を鼻の奥で感じながら、仕事もスイスイ終了。

 

2.

 

…それにしてもイヤミでは全くないのですが、世の中には1日中机に張り付いて、朝晩の通勤・帰宅ラッシュで死にそうになりながら、働いている人が大勢います。それで、自分の年収と同等かそれ以下の方もいるかもしれません。(最も、時給でしっかり換算したらまた別かもしれませんが)

 

不思議です。

単純に不思議なのです。

 

世の中は全く平等ではない。

 

もちろん、自分は自営業者なので、将来の保証はありません。ボーナスもない。また、銀行や貸金業の基準から見ると、自分は最低レベルに近い信用度しかないのです。まあ、車くらいなら買えるかもしれませんが、一戸建てとなると…限りなく厳しいのが現状です。

 

しかし、一方で自分の周りには、会社や銀行に属しながら、うつ病になったり、血を吐いて入院して退職・転職した人や、毎日の仕事でかなり落ち込んでいる人が結構います。無理な働き方をするくらいなら、ちょっと年収が下がっても「持続可能な働き方」を模索するのも良いかもしれません。

 

実際に、サラリーマンとして過剰労働を強いられている方は「生物としての人間」という側面から見て正しいのか、という点は非常に気になります。本当は「週に半分くらい、1日4〜5時間くらい働くのが、生物学的にベストなのではないか?」という気がしてなりません。

 

あと以下のような記事を見ると「やっぱり…」という気がしてきます。

news.careerconnection.jp

 

実は、奴隷にも、いくつかのレベルがあります。

 

アメリカ黎明期の黒人奴隷については、全体的に本当にひどかったらしい。しかし、古代ローマの奴隷については、そのイメージがそのまま適応できない側面もあるようです。実際に、ローマ時代の奴隷は、主人から「自由身分」を買うケースもあったといいます。ピラミッド建設についても、実はかなりゆるい感じでやっていた(少なくとも強制労働の類いではなかった。給料が出たり、あるいは食料の配給もあったとか)とのことで、現代の常識で古代を見ると、ちょっと感覚が違うかもしれません。案外待遇が良かったのです。

 

そして、古代の人が現代のサラリーマン・ビジネスマンの働きを見たらこう言うかもしれません。

 

「ああ。つまり彼らは、我らの時代の"奴隷"か」

 

3.

 

自分は10代〜20代前半にかけて、いろいろなバイトをやりました。(コンビニ、新聞配達、イベントのゴミ拾い、塾の講師、車屋さん…)たぶん、働きはじめた時期も、一般的な10代の子達の中では早いほうだと思います。今考えると、それが非常に良かった。

 

想像力の問題ですが、コンビニで一生働くというのは、かなり怖い。

これはつまり「1時間数百円で人生を切り売りする生き方」です。

そして自分には、就職〜サラリーマンというコースも、この延長に思えたのです。

 

けれど、自分の当時のバイト先であるコンビニでは、16歳の自分よりも年上の人、さらに30代半ばの男性も働いていました。彼らは優しかったし、感謝する部分も大変多いのですが、正直言って「何か薄っぺらい感じ」がしました。結局そのコンビニで2年近く働きましたが、職場を離れた後で、彼らにまた会いたいとは思えなかったのです。

 

職業差別ではありません。

単純に「会っても、何を話して良いか分からない」からです。

そして自分は今でも「できるだけそういう大人にはなりたくない」と思っていますし、そう思って生きてきました。

 

4.

 

現代には、奴隷制はありません。そして職業選択の自由があります。

 

決して「自己責任」という意味ではなく、イヤなことにはNOを突きつけて、好きなように生きる権利があります。これは、人類が血みどろの歴史の中でやっとつかみ取った権利なので、使わなければ先達に申し訳ないし、もったいないと思います。

 

私たちは自由なのに「不自由」だと思い込んでいるのは、その「思い込みそのもの」に原因があるのではないでしょうか。あるいは「空気」などという意味不明な代物です。

 

そんなものは、無いのです。

 

そのことに多くの方が早く気づき「NO」を突きつけることができたら。状況は変わっていく気がします。これだけ豊かな国なので、別に仕事を辞めたって、餓死しません。福祉制度の最低限の知識、あとは本当に有効な「ヒト」のネットワーク。これがあれば、大丈夫。スマホやPCがあれば、なおベターです。問題は「ある程度のプライドや、生きる上では不要な多くのものを捨てられるか」ということかもしれません。

 

でも、プライドのために、奴隷労働を続けるって、何かおかしいですよね。

ホリエモン「多くの人は失うものなんて何もないのに、何を怖がっているの?」と言っていました。この人の発言はたまに意味不明だったり、極論過ぎたりしますが、これについては、まったくその通りだと思います。

 

 

貯金があるって言ったって、大企業のCEOや会長が1日で稼ぐ額だったりします。

家族が大事とか言っても、仕事仕事で子供とコミュニケーションできなかったり、夫婦仲が険悪なら、何のために働いているのか分かりません。

将来の出世のためと言っても、急にリストラされたり、あるいは会社自体が簡単に倒産する時代です。あるいは、過労で死んだりするかもしれない。

 

結局、何かのせいにしたがっていますが「極論は自分のためなんだ」「自分が、怖いだけなのだ」ということに気づいたほうが良いでしょう。「○○のせい」という責任転嫁を辞めないと、いずれ大変なことになるでしょう。現在のこの国のように。

 

なぜ、そんなことが分かるのか?

かつて自分も「自分以外の何か」に責任転嫁し続けていた1人だからです。

NHK「九州・沖縄ミライ語り! どうする!?米軍基地」の感想

1.

 

昔「真剣10代しゃべり場」という番組がありましたが、その基地問題バージョンのような内容でした。

これってホント!? 誤解だらけの沖縄基地

これってホント!? 誤解だらけの沖縄基地

 

 

なんと言いますか…

沖縄の方々や島の現状は「沖縄、本土、アメリカ」という3つのベクトルに引き裂かれているような印象を受けました。

 

その象徴として「基地」があり、あり続ける限り「未解決」であり「現在進行形」なわけです。(例えば、若い人たちが第2次大戦に対して、あるいは、アメリカ云々などあまり思わないのは、戦争の傷跡・痕跡がどんどん失われているからです。)

 

そして、沖縄の人からすると、問題があまりにも大きすぎて(ある意味で、日本政府でもどうしようもない部分もある)「正直、何にぶつけたらいいか、分からない」というフラストレーションもあるのだと思います。

 

沖縄両論  誰も訊かなかった米軍基地問題

沖縄両論  誰も訊かなかった米軍基地問題

  • 作者: 月刊フォーNET「沖縄両論」取材班代表 松本安朗,月刊フォーNET「沖縄両論」取材班
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2.

 

この番組を見ていたら、いくつかのデータが示されていました。

 

まず、米軍関連から生み出される所得の割合が、どんどん減ってきているということ。まあ、沖縄の経済規模もここ数十年で右肩上がりなので、一概には言えませんが、事実、米軍基地の恩恵が感じづらくなっているのはあるかもしれません。

 

それから「本土の人は沖縄を理解しているか」みたいなアンケートに対して、80年代は半々だったのに対して、数年前の調査では「理解していない」が約7割くらいになったようです。なぜ、こういう気持ちが広がってしまったのか…という点は、大変は気になります。(大きな要因としては、やはり「問題を放置している」「見て見ぬ振りをしている」という想いが大きいとは思いますが)

 

3.

 

現実的な解決策を考えますと、とりあえず3つくらい考えられます。

(かなりの極論も含みます)

 

①本土、そして沖縄に、基地問題でイニシアチブが取れる政治家が出てくること

②舞台をアメリカに移して、地道なデモ行進やロビー活動を繰り返し、アメリカ国民の支持を取り付けること(こういう活動は、すでにやっているかも)

③沖縄が独立し、アメリカや日本政府と個別交渉すること

 

沖縄独立を夢見た伝説の女傑 照屋敏子

沖縄独立を夢見た伝説の女傑 照屋敏子

 

 

「沖縄独立」の系譜―琉球国を夢見た6人

「沖縄独立」の系譜―琉球国を夢見た6人

 

 

 もちろん、北朝鮮問題がなくなり、中国が領海・領空侵犯などをしなくなれば、米軍の撤退もあり得るかもしれません。しかし「時間が解決する」とか期待していると、実現は、数十年後とかになりそうですね…。

 

4.

 

根本的なところで1つ思うのは「日本は地理的な要因で、これまで超大国の支配を受けてこなかった」ということ。つまるところ、日本は外交に関しては完全に経験不足なわけです。

 

 

遣唐使・遣隋使とかで、中国も日本を属国とは思っていたでしょうが、別に制圧しようとまでは思いませんでした。コストがかかりすぎるし、長い船旅で兵士が半端なく消耗するので、どう考えても不利だったからです。(いわゆる壊血病の問題、台風や高波の問題など、航海は命がけでしたので)

 

第2次大戦でアメリカに占領されましたが「民主主義」とかを掲げ、思っていたよりはソフトで紳士的な支配で、おまけに主権もすぐに日本政府に渡しました。(旧共産圏に支配されなかったのは、たぶん不幸中の幸いでした)

 

つまり、日本は、他国ときちんと外交する必要が歴史上ほとんどなかったと言えるかと思います。それも「民族の存続を賭けた、命がけの外交」を、です。文化交流はもちろんありましたが、外交の根本は、もっとラディカルで、危機的かつ最悪のシナリオも視野に入れたものです。そして、この「なんとなく」での付き合い方こそが、日本人特有の「場の空気」の正体と言えるかと思います。でも、外交では「場の空気」なんて通用しません。しかし例外的に、場の空気に頼らない本物の外交をおこなったのが「明治時代のリーダー達」だったのではないかと思います。(この話はとことんまで長くなるので、また別の機会に書ければ、と思います)

 

今の政治家のほとんど(ひょっとしたら100%?)は、外交の仕方を知らないのです。

そして、米軍を撤退させた後、日本の領土とか安全を守りつつ、なおかつうまくやっていくビジョンを思い描けないし、本気でその実現を模索する人もいないのです。

だから基地問題も解決しないのです。

 

5.

 

いずれにしても、第二次大戦の傷跡・遺物は、米軍基地という形で残っています。

 

そしてその大義名分が「日本を含む極東地域を守る」というものだからタチが悪い。

 

さらに、米軍基地が一応本土にもある点も、沖縄で今ひとつ米軍排斥運動が本格化しない、あるいは県民の意見が割れてしまう1つの理由かもしれません。(「本土だって負担を負ってるよな…」みたいな気持ちもゼロではないはずです) 

 

6.

 

ひょっとしたら、世界は「本土が沖縄を見るような感覚」で、日本を見ているような節もあるのではないでしょうか。

 

独自の存在感を放ち、どこか神秘的で、そして無防備で…。

 

「本土 対 沖縄」「世界 対 日本」…両者が不思議な相似形になっているような気がしてなりません。案外、基地問題の解決が、日本再生のカギを握っているのかもしれません。

「アニメ過疎地」としての沖縄【*2020年追記あり】

1.

 

部屋にいるときは、賑わし目的(?)でだいたいテレビを付けています。

 

特に雨、台風、風、台風、台風…などで外出できない時は、ほぼ1日テレビを付けていることも。(そういえば、また台風が発生したそうですね…)

 

それで気づいたのですが…

 

「沖縄のテレビって、アニメが極端に少なくね?」

 

2.

 

実際に調べてみると、ドラえもん、しんちゃん、しまじろう、妖怪ウォッチ…など、子供向けのアニメ以外はほとんどやっていないことが分かりました。

 

過去に、けいおんコードギアスなどのビッグネームは放送したらしいですが…。

 

実際に、沖縄県民放テレビ局初のローカルアニメ『はいたい七葉』というのがあるらしいのですが、放送スタートが2012年10月6日。つまり、4年前まで、沖縄民放は一切アニメを作っていなかった、ということです。(しかも、5分番組です)

 

3.

 

まあ、今はネットやレンタルビデオ店もあるので、視聴にはそこまで困らないはず。

 

でもなんで、ここまで、沖縄ではアニメ(特に青年〜大人向け)が放送されていないのでしょうか?

 

おそらくですが、沖縄の放送局の中枢にいる「中年以降のお偉いさんが理解を示していない」という点が1つあるかな、と思います。(「アニメ?そんな軟弱なもの…! 海の藻屑にしてくれるわ!!」*あくまで想像です)

 

あと「そもそも需要がそこまでない」という気もします。

 

自分の印象ですが、沖縄の青年〜大人の男性は、雰囲気的に「アニメ好きだよ!」という感じではありません。仮に好きでも(アニメ好きを公表したら、変態だと思われるんじゃね…ドキドキ)みたいに思ってるような節もあります。(*あくまで想像です)その代わりに、ダンスとかバンドとかが流行ってるのかな?

 

さらに、沖縄の方々は地域の文化とか伝統をものすごく大事にしていて、プライドを持っています。それが逆に「沖縄に関係の無い番組は、ニュースやバラエティ以外にはあまり放送しない」(*あくまで想像です)みたいな方針につながっているのかな?とも感じたりしました。

 

4.

 

けれど、やっぱり沖縄にもアニメ好きやオタクはいるわけです。

 

ひょっとしたら、そういう些細なことも、この美しい島を出て行く動機になったりするのかもしれません。

 

あと、こちらに来て、いわゆる「セクシャル・マイノリティ」の人にもたまたま出会ったのですが、その人もいずれは沖縄本島に住みたいと言っていました。(周辺の島で1番大変な人たちは、アニメ好きやオタクよりも、セクシャル・マイノリティの人たちかもしれません。たぶん、これらの地域では、セクシャル・マイノリティに対する理解は乏しく、同時に本人もかなり生きづらいだろう、という気がします)

 

5.

 

でも「だから沖縄(&周辺の島)は住みづらいところ」とは言えないと思うんですね。

 

当然ですが、誰にとっても完璧な地域なんて存在しません。それは東京だって、沖縄だって、パリだって、ハワイだって…どこだって同じです。それぞれに良いところがあるので、そちらを積極的に見るほうが絶対に良い。

 

 

 

…うん。

 

それじゃあ、昼ご飯でも食べに行こうかな。

 

【追記】

実はこのページ、かなりアクセスが良くて「多くの方が関心を寄せているのかな」と言うことが伺えます。

 

それで気になってさらに調べたんですが、こんなページを見つけました。

dic.nicovideo.jp

 

沖縄のアニメ事情について詳しく書いてあるんですが、これを読む限り、数年前に自分が感じたことは当たっていたようですね(笑) 

 

あと、これですね。

anime.aoba-e.info

 

こちらは、沖縄のテレビアニメに関する番組表が見られる情報サイトなのですが…九州地方は、福岡・佐賀県以外だと、アニメ放送がかなり少ないことがわかりますね。

 

そして、放送ラインナップを見ると、やはり「アニメ=子供が見るもの」という感じで番組を決めているのかも!? とも思えます。

 

テレビ局の予算の問題などもあるでしょうが、沖縄を舞台にしたアニメは結構あるので、沖縄のアニメファンのためにも、そういう作品だけでも地域でもっと放送されれば…と願っております。

地域限定CMの話

1.

 

南の島に来てから、つまらなかったテレビが急に面白くなりました。

 

南の島は、当然ご当地のCMなども流れますが、区分で言うと「九州・沖縄地方用のCM」として放送されているようです。

 

その中で「うまかっちゃん」というインスタントラーメンのCMがあるんですが、これがかなり可愛いんです。「方言萌え」とは、こういう感情を言うのでしょうか?笑

 

 

「告白するちゃ!……好きやけん!」

 

……これは、かなりの破壊力です笑

 

2.

 

あと、同じ車や化粧品とかのCMでも、地方によって微妙に違うのかな?と思いました。

 

それから、ご当地のCMもかなり流れます。やはり、南の島出身の有名人の方が多いですね。そして、具志堅用高さんがけっこう頻繁にCM出演しています。こちらにくると、本当に、こちらの人にとって具志堅さんはスーパースターなんだなあ、と感じます。石垣島には、立派な銅像も建ってますしね。

 

また、南の島は「雇用関係」「資格・スキルアップ」などのCMが比較的目立つような気がします。やはり、失業率の高さが原因か…。

 

あと、国仲涼子さんが「お酒の飲み過ぎはダメだよ!」みたいなCMがありますが、これも納得。基本的に沖縄の人たちは、本当に半端じゃないくらい飲みます。「移住するにしても、お酒が飲めないと大変だよ」みたいな話を、数年前、与那国島のバーに行ったとき、バーテンの女性から聞いたことを思い出しました。

 

まあ、それはともかく「ココナッツチップス」って、結構おいしいな。ボリボリ…

「ムハマド・ユヌスの夢」の話(昨日のブログの続き)

1.

 

昨日は、こんなブログを書いた。

今回は、その続きとも言えるかも。

 

fromthe30yearsold.hatenablog.com

 

 

今日は、初めて南の島の図書館に行き、本をいろいろと物色してみた。

 

その中で見つけたのがこの本だ。

貧困のない世界を創る

貧困のない世界を創る

 

 

実は自分は、仕事でヤヌス氏の偉業を書いたことがある。

 

よく知らない方のためにごくザックリ説明すると、ムハマド・ユヌス氏は「マイクロクレジット」(マイクロファイナンス)という、信用による少額貸し出しによって貧困の根絶に大きく貢献した。数字の上でも、ビジネスモデルとしても画期的で、すでに様々な企業の協力によって国際規模の動きになっている。

 

彼は、貧困の根絶を「チャリティ」「ボランティア」ではなく、あくまでも「ビジネス」で達成しようとする。それは、貧困にあえぐ人々が、自発的な小ビジネスをはじめることを意味する。それも、男は基本的にダメで、女性にお金を貸し、ビジネスの元手とさせる。これは、本当に画期的なことだ。

 

実際に彼は、2015年までに祖国バングラデシュの貧困を半分にした。グラミン銀行の創設をはじめ、多くの関連グループ立ち上げにも参加、ノーベル経済学賞も受賞している。今最もアクチュアリーで、具体的なモデルを示している人だ。本当に、死後、どこかの国の紙幣として印刷されるであろう人物である。(その前に、バングラディシュの首相か何かになるべきだと思うが)

 

…ちなみに、日本でこれに近く、しかし実は正反対なビジネスが「消費者金融の無担保少額融資」である。改正貸金業法の施行以来、結構マシな感じにはなっているが「武富士」「商工ローン」とかを、リアルタイムのニュースで見ていた世代からすれば、失笑ものだろう。

 

2.

 

本を読んで、印象に残った部分をご紹介したい。

 

IT革命がもたらす新たな社会は、毎年GDPに追加される大きな額によってのみ特徴付けられているわけではない。

人々や企業が、この技術を用いて蓄積しているのは富ではないのだ。新たなITの素晴らしい貢献は、それが人間同士の新たな関係を作り上げるという一つの根本的事実によってもたらされている。

そして、この変化は必然的に、貧しい人々、特に貧しい女性と子どもたちの人生に、重要な影響力を持つことになるだろう。(p294)

 

 

私は貧困と闘う最も良い方法は、貧しい女性たちに威厳と自立を与えることであると確信している。

ITとマイクロクレジットは非常に効果的にこれをやってのけ、相互に強化しあっている。 (p301)

 

『貧困のない世界を創る』ムハマド・ユヌス早川書房

 

 

彼が創りだしたモデルは、21世紀ならではのタイミングで(技術的側面からも)可能になったものだ。具体的には「IT」(情報技術)の進歩という、巨大なパズルのピースが揃ったということである。

 

実際に、貧困の現場においては、1台の携帯電話(スマホ)が状況を大きく変えることも珍しくない。

 

貧しい人たちにとって、「世界の情報にアクセスできる」ということの意味は、それが当たり前だと思っている私たちよりも遙かに大きく、可能性に満ちている。

 

中間搾取のない市場に開かれ、オープンな教育に開かれ、書物や、映像と言ったコンテンツに開かれ、コストのかからない連絡手段として開かれ、あるいはソーシャルビジネスの足掛かりとして、収入の安定や独立に開かれている。

 

3.

 

ムハマド・ユヌス氏の言うように、貧困は「貧困博物館」でしか見ることのできない、過去の遺物となるだろう。彼のおかげで、その実現が少し早まったのではないか、と思う。

 

それでたぶん、貧困が根にある暴力や紛争は、全てと言わないまでも減るだろう。

 

…私たちの世界は、今ここまで来ている。

人類の歴史が、良い意味でターニングポイントを迎えつつある。

 

そういうことが分かっていると、これからどう働くべきか(何に向けて、何のために働くか)が明確になってくるのではないかと思う。

 

1つのキーワードは、ムハマド・ユヌス氏が現在最も関心を寄せているものの1つである「ソーシャルビジネス」だ。極端な話、利潤はトントンでもいいから「Make a Better Place for You & Me」を目指すと言うことだ。ただし、これは巨大な規模になりがちだし、大企業や富豪などのスポンサーが付かないとなかなか実現は難しい。

 

しかし、グラミン・モデルのように、個人でできる範囲で、その流れに連なることを考える。これなら、誰でもできる。この気持ちがあれば、サラリーマンだって、主婦だって、下手をすれば幼稚園や小学生の子だって「正しい方向」(という言い方はキライだが、あえて言わせてもらいます)に進めるだろう。少なくとも、再起不能なほど、何かで気持ちが折れることはなくなるのではないか。

 

バングラデシュでは、可愛いチビたちを食べさせるために、元手を手にした女性達が、ヨーグルトを売ったり(グラミン・ダノン)、このほか企業から委託された服や商品を売ったりして、一家の大黒柱となって、額に汗して働いている。今日もきっと笑顔で、働いている。これほどの希望があるだろうか?

 

今の時代、個人も企業も、短期的な利益を考えていると、簡単に道を見誤るような気がする。世界には、このようなものすごく巨大で、希望に満ちたイノベーション・動きがある。それを知らない人間だけが視野狭窄に陥って、くだらない犯罪やら、トラブルを起こす。有限な人生を、そんなくだらないことに関わっているヒマはない。そういうくだらないことは、もはや過去の遺物となりつつある。

 

4.

 

実は、ムハマド・ユヌス氏のビジネスモデルは、倫理的な問題にもある種の教訓を教えてくれている。

 

・ 親切は「それを本当に欲している人」に与えなければ意味がない。

・ 一時的な手助け・施しは問題解決につながらない。問題解決には「仕組み」(モデル・ノウハウ)が必要。

 

うーん、21世紀は人間関係やビジネスの意味も変わってきているみたいだ。

 

【重要な追記】

 

夜、ヤヌス氏のインタビューを見た。

 

そうか、ヤヌス氏は、銀行と正反対のことをやったんだ。

 

「持っているから信用する」ではなく、「信用して持たせてやる(貸してやる)」ということをやったんだ。

 

ただ、本当にただこれだけなのに…なんてすごいんだろう。

「ただこれだけのこと」を、誰もできなかったのだ。

「ITは、持たざる者にとって最高のものなんだよ」という話

1.

 

中国の極貧の村が、変わってきているらしい。

 

インターネットを駆使して世界中を相手に販売ルートを獲得、それによって村に産業を生み出している人がいるという。

しかも1つの村の話ではなく、複数の村で起きているとのこと。

 

中国の平均月収は、上海で4万円、北京で3万円。(手取りで)

出典が10年近く前なので、今はちょっと違うかもしれないが…

 

ちなみに「中国の極貧の村」は、世帯の年収が3万円だったりする。

 

 

…東京に住む人の平均月収は、手取りで24万円。年収で、288万円。

中国の極貧の村」を日本基準に直すと、世帯年収が24万円ということになる。

世帯年収」がどういう意味かお分かりだろうか?

 

年収24万円で父母、祖父、子供達など、10人近くが飯を食っているということである。

子供達は当然学校にも通えない。

中国には、現在も、こういう凄まじい格差が存在しているのだ。

 

そして、その格差を是正し、彼らを救っているのは、政府ではなく、ITを手にした村の若者や、新進起業家だったりする。

 

2.

 

インターネットを使うと、なぜ村に産業が興るほど儲かるのか?

それは、貨幣価値の高い国相手に、宝石など、村の特産品を直接売るからだ。中間搾取なしで。

 

 

この話を聞いたとき、IT技術の真の意味の1つを知った気がした。

 

実際にインドのような途上国でも、IT技術者やプログラマーが巣立ち、世界を相手にお金を稼いでいたりする。

 

また、多くの人がその実態をよく分かっていないであろう「Google」という企業は、IT技術による「再分配」に本気で取り組んでいる。

 

3.

 

ところで、日本でも義務教育でのプログラミング授業がはじまるらしい。

 

自分は小学生のころ家庭科や技術の授業を受けたが、特別に料理がうまかったり、日曜大工みたいなことができるわけではない。

 

「一応プログラミングに触れるだけでも良いよね」という考え方は確かにある。

 

それはそうなのだが、こんな時代なので「義務教育でのこの基礎を学んでおけば、その後は独学でもなんとか学べて、最悪の場合でも喰っていけるよ」みたいな明確な指針は示して欲しい気がする。

 

でも、どうせお役所仕事なので、期待できない気がする。

 

4.

 

「プログラミングは難しい」とよく言われる。

挫折する人も多いという。

 

でも、難しいのは、ある意味で当たり前である。

なぜならプログラミングは、人類の知性がたどり着いた1つの終着点であるからだ。(論理学、ブール代数アルゴリズムetc…)

 

同時に、プログラミングは全然難しくない。

それは、料理とか、ピタゴラスイッチとかに似ている。

 

明確な機能やゴールが目指されていて、とりあえず問題なく動くならば、そこに至る道筋は全て正解ということになる。

 

…プログラミングは自由度が高すぎるために、捉えどころがない部分もある。

多くの人は、プログラミングを学ぶことで、具体的にどんな役に立つのかイメージできない。

 

例えば、カレーを知らない人に、材料だけ渡してもピンとはこないだろう。

これに似ている。

 

プログラミング教育で、先生はきちんと「カレー」を提示できるのだろうか? その楽しさや可能性を、生徒に伝えられるのか? 大変気になる部分ではある。

 

もちろん、カレーが作れるようになっても差は出てくる。

一流シェフになって、カレー1杯で2,000円、3,000円と稼ぐ人も出てくる。

レトルトカレーのモデルになって、その権利で巨万の富を得る可能性も。

その反面、駅前の食堂とかで500円のカレーを作る人になるかもしれない。

場合によっては主婦として、あるいは休日の趣味として、カレーを作るかもしれない。

 

…そう考えると、本当にプログラミングと料理は似ているな。

実は、もっと話を進めると文化人類学方面にいってしまう。

もしかしたら、今度書くかも。

 

5.

 

コンピューターやITの可能性に、本当にワクワクできる人は「持たざる者」なのではないかと思う。

 

満たされた環境で学んでも、あまり習得できないのではないか。

プログラミング、あるいはITノウハウの習得には「カレーが食べたい」というハングリー精神が必要かと思う。

 

お腹が減っていない人は「ニンジンの栄養素」「カレーに含まれるスパイス」とか、衒学趣味の、しょうもない知識を身につけてしまいがちだが、腹が減っている人にとってとにかく重要なことは「とにかくカレーにありつくこと」である。こういうのがないと、途中で挫折しちゃうんじゃないかな、と感じる。

 

…今日は何でこんな話題を書いたんだろう? まあ、つれづれなるままに(笑)

南の島のバーガーショップで考えるとりとめもないこと、の話

1

 

南の島のとあるバーガーショップは深夜0時が閉店。つまり、あと1時間30分ほどいることができます。

 

今日は何しに来たのかというと、夕飯&仕事です。

 

仕事が一段落するタイミングで、次の仕事が…という感じで、なかなか途切れてくれません。

 

けれど、むしろこれは有り難いこと。感謝せねば。

それに、仕事が次々来るけれど、キャパを超えて重なることはないため、むしろラクな部類に入るかも。これもラッキーです。

 

2

 

もうすぐ南の島に来て、1ヶ月!

9月1日からこちらにいるのですが、長いような短いような…。とにかく10月からは後半戦です。10月はマンスリーでレンタカーを借りますので、車でないと行けない食事処や観光地、それにビーチなんかにも行こうと思っています。

 

それにしても、自分はこちらに来て、どれくらいお金を使っているのだろう?通帳の残高はあまり減っていなかったなあ。…まあ、できる限りカードを使っているので、引き落としが怖いかも笑

 

ただ、南の島に来てから喫煙量が減り、タバコ代が浮いていること、あと、食事も実は1日1000円〜1500円前後しか使っていないことを考えると、実はそんなにお金使ってないかも。

 

洗濯は週に1回程度200円で全部済みますし、あと、水道光熱費もかかっていません。

 

それに9月は都合良く仕事が増えたので、少なくともマイナスにはなっていないかと。

 

うーん、こういう生活も、1人暮らしをするときと変わらないか、むしろ安い可能性もあるなあ。

 

3

 

なお「旅は出会いだ、人情だ」と言いますが、自分は同じ宿の人などにあまり積極的に話しかけません(笑)

 

人見知り…というわけでもありませんが、個人主義者なので(笑)

 

ただし、目が合ったり、すれ違うときは、頭下げたり、挨拶はします。そういう常識はあります(笑)

 

しかし、1ヶ月近くも頻繁に同じ人とすれ違ったりしていると、向こうから話しかけて来てくれたりすることも。性格がイケイケのあんちゃん(と言ってもおそらく自分より若い)が「どっから来たんすか?仕事すか?」とか話かけてくれたり…。

 

こう、自然に認知されるくらいがちょうどいいですね。

 

ただ、けっこう宿の皆さん同士は仲良くなったりしているようなので、良いことだなあと思いながら暮らしてます。実際に、自分のような仕事を持っていたり、あるいは無類の読書好きなどで無い限り、部屋で1人でいるのはかなり大変かと思います。何日かで絶対ヒマになります。

(というか、部屋で1人でいたい人は、わざわざ南の島にこないか笑 かくいう自分も、ファミレス、ファーストフード店、海辺、公園などで仕事をしています)

 

4

 

正直言いまして、他人に対してあまり積極的でない点に少々コンプレックスを感じている時期もありました。

 

今は「リア充」が流行っていたり、facebookやLINEの友達の数は多いほうがいい、という価値観ですから…。

 

そういう意味で自分は間違いなく友達ができにくいし、出会いにくい(笑)それは認めます(笑)

 

ただ、自分は仕事でいろいろな人に初めて出会うことがありますが、そういうときは臆せず、(少なくとも自分の中では)自然に話します。実際、そんなふうに飛び込んで仕事を取ってきたり、企業様とお付き合いさせて頂いているわけです。

 

もうそんな生活を何年もやっていますので、少なくとも自分は、世にいう「コミュ障」ではない。

 

じゃあなんなのか?

…単に無精で、おまけに今は切実に(いま築いている以上の)友人などを必要としていない、ということかと思います。

 

そして、若い人たちに対して少々上から目線かもしれませんが「友人が必要でない時期」を見極め、認めるということが、人生のある年齢・タイミングからは重要になるのかな、という気がします。

 

本ブログでは度々書いていますが、1人の人間の資源は有限です。時間やお金ほか、様々な要素がそうです。友人付き合いは確かに楽しいです。しかし「友人付き合い」に飲み込まれると、私生活が破綻していきます。もちろん、私生活がなくなる経験は、人生に1回くらいは良いかと思いますが。

 

自分も大学時代に、気の合う友人を見つけて、サークル、ショッピング、バンド活動、互いの家に泊まったり、泊まりに来てもらったり、夜通し飲んだり、旅行にいったりデートしたり、時にはトラブったり…ホントにいろいろなことがありました。

 

こういう時間はかけがいのないものですが、基本的に何も残りません。予期せぬ出費もかなりあります。しかしむしろ「何も残らない」「ムダに消費する」からこそ良い、とも言えます。

(親友とは、夜通し知的な議論を繰り広げたこともありました…。しかしこれは、一般的な「友達関係」とは少々違うでしょう。切磋琢磨できる「ライバル」を持てたことは、たぶん人生最大の幸福の1つです)

 

自分がライターとして食べられているのは、5年近く、ほとんど誰にも頼らずガムシャラに働いてきたからです。それ以前の、中学時代〜大学時代の大量の読書、映画視聴、そしてウジウジと悩み抜いた、両手で抱えきれない分の夜があったからです。現在はその「貯金」で食べていると言っても過言ではない、と言えるかと思います。

 

この「貯金」の時期は、ほぼ孤独でした。

孤立はしていないけれど「良質な1人の時間」が必要だったのです。ここを経過していないと(あるいは、こう言った環境・時間に耐えられないと)これからの時代を生きていくのは少々キツいかな、という気はします。

 

自分の印象では「'大勢'がいる'人気・定番'の'王道'」は、老朽化し、どんどんほころびてきています。たぶん「良質な1人の時間」の中で、ささやかでもいいから、少しずつ自分にとって意義があるものを立ち上げていかないと、割と簡単に濁流に呑み込まれるかな、という感じがします。

 

…さあ、今日はこれぐらいで。仕事に戻らないと笑