遊びについて考える〜「遊びと人間」(ロジェ・カイヨワ)の話
0
自分は昭和生まれということもあって「遊び < 仕事」(仕事は遊びよりも優先されるべきもので、仕事の方が上等なもの)と言うような価値観の中で育ってきました。
ですが今の時代を見ると、このヒエラルキーが逆転してきているように見えます。
自分にとっての本当の心地よさや楽しさを(収入よりも)優先させて、新しい価値観の生活を組み立てている方。
やりたいことを老後や定年後の楽しみではなく、今、すぐに始めてしまう方。
…そんな人が(自分の周囲を見渡しても)増えていますし、昔に比べてはるかに、それでも食べていけるような環境が整ってきているような気がするのです。
(ちなみに、ホリエモンさん(堀江貴文さん)も、自らの著書の中でたびたび「仕事と遊びの境界が曖昧になって」きていて、「技術の進歩に伴って、今後どんどん遊びが仕事になる」と言っています)
そんなわけで今1番興味があるのが「遊び」です。思えばこれまで、遊びについてあまり真剣に考えた事はなかった気がします。
1
カイヨワはフランスの哲学者として、そこそこ有名な人物です。
かつてNHKの人気番組「100分de名著」で特集されたこともありました。
番組ではカイヨワの『戦争論』が取り上げられましたが、今回はもう一つの名著である遊び研究の古典『遊びと人間』を取り上げます。
(*今回はこちらの本を読みました)
2
さて、本書では遊びを以下のように定義しています。
【遊びの定義】
1 自由な活動。すなわち、遊戯者が強制されないこと。もし強制されれば、遊びはたちまち魅力的な愉快な楽しみという性質を失ってしまう。
2 隔離された活動。すなわち、あらかじめ決められた明確な空間と時間の範囲内に制限されていること。
3 未確定の活動。すなわち、ゲーム展開が決定されていたり、先に結果が分かっていたりしてはならない。創意の必要があるのだから、ある種の自由がかならず遊戯者の側に残されていなくてはならない。
4 非生産的活動。すなわち、財産も富も、いかなる種類の新要素も作り出さないこと。
遊戯者間での所有権の移動をのぞいて、勝負開始時と同じ状態に帰着する。
5 規則のある活動。すなわち、約束ごとに従う活動。この約束ごとは通常法規を停止し、一時的に新しい法を確立する。そしてこの法だけが通用する。
6 虚構の活動。すなわち、日常生活と対比した場合、二次的な現実、または明白に非現実であるという特殊な意識を伴っていること。
『遊びと人間(講談社学術文庫)』 40ページ
この定義に照らすと、子供はかなり濃密な遊びの体験の中に生きていることが分かります。大人の目からみると、少々羨ましい気も…(笑)
そしてもう1つ重要なのが、本書における4つの遊びの分類です。
【遊びの分類】
●アゴン:競争。スポーツなど
●アレア:賭け事など
●ミミクリ:模倣。演劇など
●イリンクス:めまい。サーカス、ジェットコースターなど
…これらを使って、既存の遊びがどこにカテゴライズされるのか考えてみるとすごく面白いですね。
もしかすると従来遊びと考えられているものが、厳密には遊びと呼べなかったり、あるいは遊びと思われていなかったものがそうではなかった…ということもあるかもしれません。
***
「戦争論」においては、それが「聖なるもの」であり、だからこそ人類には戦争への傾きがある、というような分析がなされています。
人間社会を動かし、調整するものの根底にある「非合理的」なものの中に、戦争も遊びも含まれる…というのが示唆的です。
3.
それから現代において、遊びにも関係している重要な考え方となっているのは「ゲーム理論」と「ゲーミフィケーション」でしょう。
両方とも社会や経済をゲームの視点(利害を考える個々のプレイヤーの視点)で捉えており、マーケティングや組織運営などにも生かされています。
それらがビッグデータや、アルゴリズムと関連付けられて…と、なかなかすごいところまで行っているのですが、長くなるので、それはまた別なお話ということで。
ただ1つ言えるのは「仕事と遊びの価値観やヒエラルキーの逆転」に、このような流れが深く関わっていると言うことです。
4.
余談ですが、カイヨワは本書の中で「遊びはぜいたくな活動で、余暇を前提とする」と書いています。
昨今の働き方改革が、多くの人へ遊びに必要な贅沢や余暇を提供してくれるのかどうか…今後に注目と言えそうです。
(*『遊びと人間』の下敷きになっている著作です。)