脱・メインカルチャー、の話
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メインカルチャー(英: main culture)あるいは主流文化(しゅりゅうぶんか)とは、サブカルチャーと対比して用いられる語で、ある社会で支配的な文化のこと。 文学、美術、演劇、音楽など社会の(主流をなす)構成員が健全な文化として受容するものである。
メインカルチャーは「究極」を求める。人生の意味とか、世界の真理、魂の救済とか。
自分がこれまでに、積極的に受容し、あるいは大学で学んできたものがこのメインカルチャーだ。 それはある程度有効であったと思うけれど、ある年齢に達すると、そこにある種の限界を感じるようになる人も多いのではないか。自分もその1人だ。
実は、このような流れは、個々人の趣味嗜好ではなく、ひとつの文化現象として起きることも珍しくない。古くはルネサンスから、80年代の日本では、メインカルチャーの重さを逃げる(避ける)ような方向のポップ哲学・思想へ。(軽チャーなんていう場合もあるらしい)
… ただし、そこで一時的に獲得された新鮮さや軽さは、すぐに権威づけされ、独特の「重み」を持つようになってしまうのだが。
例えば当時のニューアカの代表格であった浅田彰は「逃走」をすすめた。けれど、彼の言説は、バリバリのエリート環境をバックボーンに「権威の言葉」で語られていたのだ。
それで、このように醸成された「空気」を敏感に感じた若きインテリほか、若者達はどうしたか? 一部が、90年代にテロを引き起こした某宗教団体などに入信したわけだ。
サブカルが「深刻さ」を扱うと、あるいは「サブカルの皮をかぶったメインカルチャー」であると、それに付いていった人が"大怪我"をする可能性が明らかになったわけだ。
2.
30代に突入し、自分は少しずつスタイルを変化させている。
早くも「人生の第2ステージ」という気持ちだ。
戦略としてまず興味深かったのは「ダウンシフト=減速して生きること」。
それから今後、ぜひ実践したいのが「脱・メインカルチャー=サブカルチャーへの移行」なのである。
サブカルチャーは本来、そのくだらなさ、マイナーさ、(あるいは外見的な無価値さ)が命であり、マイノリティの居場所だ。逆に市民権を得て、社会に広く認められたり、あるいは大学の授業などで扱われるようになったらもう終わりとも言える。
…そう考えると、サブカルチャーは「常に発見される(あるいは作られる)もので、まだほとんど注目されていないもの」と言えるだろう。ちなみに、みうらじゅんさんはそういったものを見つけるスペシャリストだ。
いかにして、重さや権威、冗長さを回避するか。一部のヒップな人たち(死語?)が常に追い求めてきたことだが、自分も30代に突入したので、それをかなり真剣に(だけど深刻にならず)考えないといけない、と思う。
そのためにはまず「言葉」(文体)を獲得しなければならない。
自分の言葉はメインカルチャーから多大な影響を受けている。良いところも多いと思うけれど、これが本来の自分の言葉であるのか、という点がとても気になる。
(現在うけている本の大半は、万人にとって使いやすい文体の教科書だからではないかと思っている。ちなみに、多くの作家、作家志望者は「文体の獲得」の段階ですでに頓挫している)
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なんか、ちょっと難しい話になったけれど、部屋の片付け、順調です。
数年近く敷きっぱなしだったカーペットを処分し、本やゴミを少しずつかたづけています。今月中にエアコンを新しくすることも決めました。
それからシンプルに良い机とスタンドライト、そして、部屋に設置するオーディオスピーカー。さらに、緑の植物を…。(余裕があればコーヒーマシンも)