30歳からのブログデビュー

アラサー男があなたに贈る現代版「徒然草」(つれづれぐさ)

コミュニケーション=「Say Anything」

1.

 

旅をしていると、否応なしにコミュニケーションについて考えざるを得ない。

 

コミュニケーションなしには、宿も、食事も、休息も、情報も、楽しみもないのだから。コミュニケーションが不要になるのは、見知った人に囲まれて、一カ所に定住しているときのみだ。しかし、旅では必然的に、否応なしに"他者"と触れざるを得ない。

 

それで最も感じたのは、1番まずいのは「何も話さないこと」勇気を出して話したり、聞いてみたりすると、世界が変わる。

 

……自分はかなりシャイなのだけれど、たぶん、シャイで得したことってあまりない。不自然に話しまくって損をしている人も身近に見たことがあるが、何も話さないのも、やっぱり損だ。

 

そんなふうに感じたときに、ふと思い出したのが以下の曲。

 

 

You say anything 傷つけ合う言葉でも

 

X『Say Anything』より

 

BALLAD COLLECTION

BALLAD COLLECTION

 

 

 

なんでも言ってくれ(say anything)、傷つけ合う言葉でも。

 

 

……おそらくこの言葉に、コミュニケーションの根源は凝縮されていると思う。

 

自分はX(X JAPAN)が好きで、昔から聞いていたのだけれど、これまでこの曲をなんとなく聴いていた。……でも、この歌詞に隠された切実さ、他者を求める渇望というもの、人と人の間にある壁を越えたい・壊したいという切望を感じながら聞くとき、改めて感動を禁じ得ない気がする。

 

ただ、相手のほうから「話してくれないかな〜」と待っているというよりは、もしかしたら相手を傷つける可能性が0.00001%あるとしても、やはり勇気をもって言葉を発しなければならない、という、1つの意志として、自分はこの歌詞を理解した。

 

「口は災いの元」というように、「言わなければ良かった…」と後悔した経験を持つ人は多いだろう。それに萎縮して「自分から何も言わない」と決めてしまえば、確かに間違ったり、相手を傷つけることはないだろう。けれど、それは良いことではない。断じて良いことではない。何か理屈を超えて、今回の旅で、ものすごく感じた(反省した?)ことだった。

 

 

 

2.

 

コミュニケーションについて考えさせられる、もう1つ身近な「事件」があった。

 

自分の身内が飲食店で働いている。最近、責任あるポジションについた。

 

そんな身内の店に最近、とんでもない酔っ払いがやってきて、身内に向かって暴言を吐いたのだそうだ。

 

正確な発言内容は分からないのだが、分かっている内容だけでも充分にひどい(ひどすぎる)ものなのだ。

 

 

 

自分は身内に言いたい。

 

そういうひどいやつもいるが、心を閉ざすな。

 

自分や、他の大切なひとに、決して心を閉ざさないでくれ。

 

……心を閉ざし、やがて寡黙になる。相手を傷つけることで、そんなきっかけを作る人間がいる。そいつに負けないで欲しい。この出来事によって、未来の良き出会いを奪われないでほしい。

 

 

前を向くと、今、世界は確実に変わりつつある。人類がこれまで経験したことのない急速な変化だ。そんな素晴らしく、エキサイティングな時代を生きている。

 

そんな時代にあっては、例えば身内を傷つけたような種類の人間たちは、時代に置いて行かれるか、あるいは"退場"することとなるだろう。よりよい時代に、このような人間は必要ないからだ。もはや、争いによって奪い合う時代、嫉妬や憎悪の時代は終わる。

 

私たち日本人だけでなく、戦争や紛争に直面している人々、政治的な弾圧を受けている人々、など、世界的にも今はまだ困難な時代だ。けれど、そのような状況も遠くない将来(ひょっとすると私たちがまだ生きている頃に)終わるだろう。コンピューター・AIの登場が、世界の等比級数的な変化を牽引している。

 

 

私の声が聞こえる人達に言う、「絶望してはいけない」

 

私たちに覆いかぶさっている不幸は、単に過ぎ去る欲であり、人間の進歩を恐れる者の嫌悪なのだ。

 

憎しみは消え去り、独裁者たちは死に絶え、人々から奪いとられた権力は、人々のもとに返されるだろう。

 

決して人間が永遠には生きることがないように、自由も滅びることもない。

 

映画『独裁者』より

 

 

民主主義のこの時代、この国に"独裁者"はどこにいるのだろう?

 

…現職総理だろうか? アメリカだろうか? 陰謀論の都市伝説で名前の挙がる組織・団体だろうか?

 

……それは否定できないかもしれないが、我々には確かめる術がない。

 

それよりも私たちの身近に"独裁者"はいないだろうか? 私たちも権力の主体として、それを悪用していないだろうか? 自分よりも立場の弱い人に、それを乱用・悪用していないだろうか? 

 

私たちの、権力の主体としての無自覚さが、実は1番危険かもしれない。…たぶん、フーコーもそのように考えていたかと思う。

(フランスの思想家ミシェル・フーコーは、セクシャルマイノリティとして、普通の人々の間にあるパワーバランス/権力のドラマに対して、とても敏感であったのだろう)

フーコー・コレクション〈4〉権力・監禁 (ちくま学芸文庫)

フーコー・コレクション〈4〉権力・監禁 (ちくま学芸文庫)

 

 

 

なぜ権力の乱用・悪用がいけないことなのか?

 

それは、憎悪のサイクルを作り出し、この世界・社会の進歩を止めてしまうからだ。私たちの"自由"を制限し、あるいは損ねてしまうからに他ならない。

 

「世界・社会の進歩を止めてしまう」といったマクロな現象は、ごくミクロで個別的な事象の総体として起きる可能性がある。複雑系的世界観においては「心ない1つの言葉」が、後の世界大戦にまで発展する可能性があるといっても、決して大げさではないかと思う。

 

 

3.

 

切実に渇望されるコミュニケーション。他者を心から必要とするところに生まれる叫びのような、コミュニケーション。

 

そのようなコミュニケーションの回路が閉ざされることがないように。もっと人々が自覚的になれば、と思う。