30歳からのブログデビュー

アラサー男があなたに贈る現代版「徒然草」(つれづれぐさ)

嫌われる勇気〜大問題?「これからの共生」の話

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自分は今年30歳を迎えたわけだが、今最も気になる問題が「共生」の問題である。

 

言い換えれば「人との関係をより良く広げるにはどうすればいいか」ということを考えている。

 

そこで思い出すのが、ブランキージェットシティというバンドの『悪いひとたち』という曲だ。

 

 

悪いひとたちがやって来てみんなを殺した
理由なんて簡単さ そこに弱いひとたちがいたから
(中略)
悪いひとたちはその土地に家を建てて子供を生んだ
そして街ができ 鉄道が走り
悪いひとたちの子孫は増え続けた

 

『悪いひとたち』より 

 

 

深く考えさせられる素晴らしい曲なので、さまざまに解釈することができる。自分は「悪いひとたち」とは一体誰なのか?という点が、非常に気になった。

 

弱い人たちを殺しに来た「悪い人たち」もまた、「かつて強い人たちに迫害された'弱い人たち'」だったのではないか、と思うのだ。何らかの理由で、元いたコミュニティから移動せざるを得なかった人間(あるいは集団)ではないだろうか。


ちなみに神話では、この手のモチーフの話がかなり多く存在する。

 

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郵便・流通システムの発達によって生まれた「手紙」や「出版」が新たなコミュニケーションの形を創造したように、「SNS」や「電子メール」なども、ユニークなコミュニケーションの方法を作り出した。

 

コミュニケーションの方法は多様化しており、それが、相互理解の助けになっているという点では、大変希望が持てる話だと思う。

 

しかし、私たちがどのように人と関係し、持続可能な関係を築くかという点は未解決のままではないだろうか?


果たして、それがテクノロジーで解決可能なのか、あるいは不可能なのかといった点には大きな関心がある。

 


例えば、他者との関係に疲弊し、絶望したことのある人間は、それを乗り越えなければならない。

 

これは「トラウマ」といった、曖昧で心理的な問題ではない。

 

コストの面などを考慮した極めて論理的な帰結として「人付き合いは割に合わない」という結論が出てしまった場合に、それを再び論理的に乗り越えるような理論が必要だということだ。

 


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自分は現状「人付き合いは割に合わない」と感じることが多い。その理由を思いつくだけ列挙してみよう。


・ 時間やお金が無駄に費やされてしまう可能性が高い。
・ ストレスを感じたり、場合によっては健康を害してしまうことすらある。
・ 自分1人で有意義に過ごす方法を、ある程度習得してしまっている。
・ 周囲を見ても、人に振り回され、様々な損失を被っている人々の姿を見る機会が多かった。


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自分の場合は、ビジネスなど利害が絡む関係では、全く問題なくコミニケーションすることができるし、むしろ、それが好きだとさえ言える。 枠組みがしっかりしており、したがって目的や方向性もはっきりしているため、 あまり疲れることもない。

 

なので、今回で問題になるのは「持続可能なプライベートの関係をいかに広げ、構築するか」と言える。


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プライベートな関係の問題点は、枠組みがなく、したがって、方向性といえるようなものもない。そのような場でのコミュニケーションは「空気」といったような、わけのわからないものに左右されており、会話の空白を埋めるためだけに、時間やお金を浪費することになる。

 

大学生までならば、このような時間の使い方も良いだろう。事実、自分もそんなふうにして友達と付き合っていた。 しかし、大人になれば、他にやることはたくさんあるし、また、よっぽどのアホでない限り、飽きてくるのではないだろうか。


それでは、こんなふうにして付き合っている人たちは「自分が本当に困った時のセーフティーネット」になるだろうか?経験上、ほとんど期待できないと言わざるを得ないかと思う。


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このような問題に直面した時、おそらく多くの方が走るのが「自分磨き」ではないだろうか。

 

端から見ていると一体どのような目的があるのかわからないにも関わらず、ものすごく頑張ってダイエットしたり、体を絞っている方がいる。 あるいは、収入に見合わないほどよい洋服を揃えたり、ブランド物の持ち物を買ったりする方もいる。

 

そういった方は、無意識のうちに、 自分にとっての理想の出会いを引き寄せようとしている。しかしこれは、ある意味で「他者を操作している」ことに他ならない。

 

もちろん、それを非難することはできないし、軽蔑することもできない。当たり前だが、汚いよりも、清潔でこざっぱりとしている人の方が良い。

 


だが、他人を操作した代償は必ずやってくる。理想の自分を演出し続けることは、とてつもなく大変だ。 そして、その演出を放棄してしまうことは、関係が終わる原因になるかもしれない。このように、無理を続けなければならないような不自然な状態では、持続可能な関係は作れない。 おそらく双方にとって、得るものがあまりない。

 


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このような悩みに、ひとつの終止符を打ってくれるのが「嫌われる勇気」なのかもしれない。これは、身も蓋もない現実を見つめて、「1つの覚悟をする」ということである。

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

 

これは、仏教的な「諦め」の境地に極めて近いと思う。(正確には’自分ではどうにもできないことを諦める’ということ。人生を投げ出して自暴自棄になることではない)…ある種の達観なのだ。しかし、「嫌われる勇気」によって気持ちがラクになったとしても、他者とどう関係するかという問題は解決しない。

 

ちなみに、仏教における実践では「俗世を捨てる」ということが次のステップになる。 ただし、これで終わりではない。多くの方が、ここで終わりだと誤解してしまうのだが、1度俗世を捨てた後で「再び俗世に戻る」という点が大きなポイントといえるだろう。


でも、今の時代は宗教に頼るのは危険かと思う。カルト宗教も多いし、事件を起こした某教団の事例もある。


…ということは、1人孤独に歩まなければならない、ということになる。でも、そんな孤独に耐えられない方もかなり多いのではないだろうか?

 


それで多分、とりあえず必要なことは「孤独に歩む人同士が緩やかにつながり関係しあうようなこと」なのかもしれない。21世紀のそれは、宗教という名でも、政治団体という名でも呼ばれることはないだろう、多分。


じゃあ、それは何なのか?