龍と春樹…2人の村上の話
自分は村上春樹の大ファンだった。
小説はもちろん、雑誌に掲載されて単行本化されていない、昔の小論やインタビューなどもほぼ読んでいる。
春樹氏の作品は「どれか1冊」を選びにくいが、高校生の時、古本屋で初めて手に取った『TVピープル』はやはり特別。
春樹氏の作品には、何か本当に特別な力がある(あるいはあった)
世界中にファンがいるということは、そこには人類規模の琴線に触れる「何か」があるということなのだろう。
ご本人はそれを「物語の水脈」と呼んでいる。
一方、村上龍については6〜7割くらいの作品を読み、たまにインタビューやTV番組(カンブリア宮殿など)を見る程度。
龍氏の作品なら『希望の国のエクソダス』と『共生虫』が良かった。やはり高校〜大学の時期にハマった。
上の2つは特に「物語」として面白かった。しかし龍氏の作品は、1つのセリフが物語を凌駕して、胸に「グサーっ」と刺さることがある。
お前はまだ間に合うから何かを探せ、と兄はぼくに言った。
(中略)
おれはもう何をする力も残っていないんだ。まだ二十歳なのに何かを探そうという気力が尽きた。でもちょっと遅すぎたがまだ気づいただけましだと思うよ。
これでテニスとかスキーの同好会に入ったりして適当に大学を出て、オヤジみたいにデパートとかスーパーとかに就職したりしたらもう本当に終わりだった。
オウムに入った連中がおれはよくわかるんだ。気力がゼロになると何か支えてくれるものが欲しくなる。
何だっていいんだよ。
やっとわかったんだけど、本当の支えになるものは自分自身の考え方しかない。
いろんなところに行ったり、いろんな本を読んだり、音楽を聴いたりしないと自分自身の考え方は手に入らない。そういうことをおれは何もやってこなかったし、今から始めようとしてももう遅いんだ。
『空港にて』 村上龍
…表題作のこの部分が、本当にグサッときた。
これは主人公の兄のセリフで、この言葉のおかげか、主人公は音声技師になるために留学するというシチュエーションなのだ。
90年代〜2000年初頭。
バブル崩壊の世紀末的な絶望感。
地球が滅亡せずに21世紀がやってきてしまった安堵と、倦怠感。
30代前後の僕らは、そんな空気の中で生きてきた。
そして、当時のその空気の中で読んだこのセリフ。
少なくとも、こんなことを言ってくれる大人は周りにはいなかったので、本当に救われた気がしたのだった。
あれから、もう10年以上経った。
自分はなんとか、自分なりにサバイブできている。まだ全然油断はできないけど。
1つの言葉が、1人の人間を救い、導くことがある。
その事実に自分は今でも感動するし「小説ってすげー」と思う。
最も、最近はこういうレベルの小説に出会っていない。
…そもそも小説自体あまり読まなくなったし。
自分は、小説とは「薬」のようなものだと思っている。
それは、病めるとき、弱っているときにこそ効くのだと。
たぶん、今の自分は(普通に生きていくレベルには)すでに治癒されてしまったのだろう。
ということは、当分の間は「特別な読書体験」は訪れないのかもしれない。
たぶん、喜ぶべきことなのだろうが、同時に少々さみしくもある。